J.R氏がMGC社・会長・故神保勉氏への追悼記事を
思いつくままにMGCモデルガンの事を徒然と書かれました。
今回は追悼シリーズ9回目、J.R氏了承を得て転載致します。
MGCアルバイト時代のことを書くとずいぶん長くなるが、もう少しだけ。
今日は人の話だ。
【MGC本社】
新日本模型では、毎朝と夕方の2便、MGC本社との間を往復するトラックがあり、専任の運転手がいた。
荷物の積み下ろしの手伝いや、さまざまな用でときどきわたしも同乗することがあり、あの憧れのMGC本社のへんちくりんな建物へ出入りすることができた。
写真で見ると、実に妙な形をしているが、中へ入ってもそれはおんなじで、なんか今自分がどこにいるのか何階にいるのかがよくわからない建物だった。
だいたいは荷物の運びの手伝いだったが、ある程度慣れてきたとき、一緒に行った工場長とカスタム作ってる部屋へ行った。ちょうど「MGC Custom work」というブランドでSIGターゲットやウッズマンヘヴィバレル、トンプソン刻印カスタムなどを製作している時期だ。荒井さんという若い社員が屋根裏部屋のような狭い部屋でコツコツ作っていて、実に美しいカスタムがゴロゴロ転がっていた。この人は後にベレッタM9をデザインして、何かでM9を持って映ってる写真を観た覚えがある。後にタニコバさんの娘と結婚している。
ガンマニアなら誰でも知ってる超有名人の設計部長タニコバこと小林太三さんもフツーにいて、アフロヘアで薄い色のサングラスの妖しいおっさんだった。ただし、とても神々しいオーラは確実にあった。MGCを背負っているという確固たる自信がみなぎっていたのだろう。
たまたま工場長とわたしが設計室のそばを通ったとき、タニコバさんがコピーを取っていたので、工場長と親しげに話し始めた。
ところが、どうにもコピーがうまくいかないようで、工場長との立ち話の途中、いきなり罵りながら思いっきりコピー機を蹴飛ばした。
わたしがびっくりしてると、工場長は目くばせして袖を引っ張るのでその場を離れた。歩きながらもチラッと振り返ると、大声で文句言いながらほんとに思いっきりコピー機を何度も蹴っ飛ばしていた。
「ときどきあんな感じで癇癪起こすんだよね。」と工場長は笑っていた。よくあることのようで、誰も止める様子もない。
もっとも、普段は温厚で話好きの人だ。MGCの社内温泉旅行に一緒に行ったとき、宴席でそばにいらっしゃったので恐る恐る隣へ行き、いろいろ疑問に思ってたことを聞いた。
「金属ルガーのブローバックは作ったのか、うまくブローバックしたのか」とか「モーゼルミリタリーがちゃんとブローバックする写真は万博特集号に掲載してあったのに何で出さなかったのか」とか細かいことをいろいろ聞いたが、怒りもせずに丁寧に答えてくれた。
以前日記でも触れたが、ルガーはトグルが少しでも下がると下からトグルを押し上げてロックを外す秘密メカが仕込んであり、本来手動モデルでは不要なものまでロストワックスで鉄製にされていたのだが、はたして実用的だったのか、というのは知りたいところだった。
「ルガーは動くには動いたけど不安定で壊れやすかった。」
「モーゼルミリタリーはちゃんとブローバックするんだけど、パーツが壊れちゃって危険なんでやめたんだよ。」
確かにモーゼルミリタリーはハンマーやファイアリングピンストップが折れたりしそうだ。エジプトみたいに鉄製パーツに換えないとダメなんだろう。最近の動画で金属モーゼルがきちんと動いているのを見ると、表に出さない部分で強化されてんだろうなあ、と感じる。
「『狙撃』に出てくるAK47はブローバックしなかったですね。」
「あれは六研の47を戸井田さんところで電気着火にしたんだよ。」
「『赤いハンカチ』用に作った32オートは、実際には撮影されなかったんですかね。ブローバックしている様子は映ってませんが。」
「あれ、地面に落っことされた挙句、蹴っ飛ばされて壊れちゃったんだよ。発砲用も投げ捨て用も現場の小道具係はわかんなかったんだ。」
「東映の『いれずみ愚連隊』とか日活の『東京市街戦』、東宝の『血と砂』とか各社の映画に空薬莢飛ばす92式重機関銃出てきますが、あれは関わったんですか。」
「あの辺は、みんな戸井田さんところが作ってるんだよ。」
「『太陽への脱出』のルガーはどうなったんですか。」
「銃身すげ替えて4インチにして『狼の王子』で使ったけど、今はうちにあるよ。規制があるから銃身外して保管してある。」
今のように情報があふれている時代ではなかったので、どの話も貴重だった。
その後も「全日本BLK化計画」やむげんの発火大会でもお会いしておんなじような話をいろいろ聞いているが、もちろんタニコバ御大はわたしのことなど覚えちゃいないので、いつもはじめてましてだ。
本社は浦和西高のすぐそばだったが、1990年代後半に土地ごと売却されて今は住宅街になっている。
【ケッテンクラート】
助手席に乗っていたので正確な場所は忘れたが、金属モデルガンの金型を置いてある倉庫があり、入ったことがある。「P08」とか「HSc」とかマジックで書かれた錆びた金型が大量に積んであり、ああ、もう使うことないのかなあ、と心配してしまった。
奥にオートバイみたいのがあるのでなんだろ、と思って行ってみたら、なんとケッテンクラートだった。
たまげた。なんでこんなところにあるんだ !
いろいろ運び出す仕事があったのですぐ引き上げたが、帰ってから専務に聞いてみた。
「あ ? あのバイクか ? ありゃあ、借金のカタに預かったもんだよ。ヨーロッパのバイヤーにモデルガンを卸したが一向にカネを払わないのでしつこく連絡していたら、現金の代わりに珍しいモノを送るから勘弁してくれ、と言って送ってきたんだ。」
変なもの送ってくるなあ、と思ったが、それを受け取る神保会長も凄い。
ときどき倉庫へ行くたびに覗いてみて、「あ、あるある」と自分が買うわけでもないのに安心していたが、後年MGCが解散したとき、真っ先に心配したのはあのケッテンのことだった。
どこへいっちゃったんだろうなあ、と思ってたら、2000年に入ってから、御殿場の自動車整備工場の二代目社長が巡り巡って買い取り、見事に再生したことを雑誌連載記事で知って、とても安堵した。素晴らしいレストアだと思う。
連載まとめた雑誌も買ってしまった。
カマド自動車の社長の展示室で今も見られるそうだ。
https://www.k-m-d.co.jp/news/?cat=shacho
【アルバイトの少年】
アルバイトを始めた翌年くらいだったか、夏休みに小柄なやせっぽちの高校生がアルバイトで入ってきた。モデルガンは大好きで、いろいろ知りたい盛りでもあり、昭和40年代のモデルガンの話をいろいろすると、喜んで聞きたがった。昼休みにそんな話をして大いに盛り上がった。工業高校へ行っていて、旋盤を習っているというので、こいつはいつか鉄製の部品を頼むと作れるようになるかなあ、とひそかに期待していた。
正社員のおぢさんたちの中に元自衛官の30代なかばの人がいたが、この人がまた、筋金入りのガンマニアで、中田商店の東京コンバットクラブにも入っていて、長物が大好きな人だった。ある日、自慢のモデルガンと言うことでハドソンのM3A1グリスガンを持ってきた。
昼休みに裏庭で射つというので観ていたが、トリガー引いた瞬間、凄まじい轟音がした。
エジプト製バレルをつけた後撃針だったのだ。鉄製のボルトが重いのでカート1発に平玉火薬を50粒も使う代物であり、ドンドンドンドンと、まさに腹に響くような轟音があたりに木霊して白煙が濛々と立ちこめた。
工場は田んぼの中にあったし、離れたところにある住宅街に轟音が反射しても誰も警察呼んだりしないいい時代だった。
従兄がエジプト改六研トンブソンや六研M1カービンをよく射ちまくっていたから、わたしは射つ前に耳栓して身構えていたが、高校生のアルバイトクンはかなりたまげたようで、言葉も出ずに見つめていた。
このとき平玉火薬50粒の轟音に驚いていた純真な高校生こそ、現在のホビーフィックスの社長である。
彼は高校卒業後、田園調布のアサヒファイアアームスやJACで修業して腕を磨き、1990年に独立してホビーフィックス社を設立。亜鉛合金のM14や初めてロータリーボルトを再現したM16、そして最高傑作64式小銃、超重いメガヘヴィウエイトのガヴァなど独自路線のモデルガンで業界に大旋風を起こした。
まだ独身で東京で仕事をしていたわたしは初期のM14やM16の解説書を書き、夏休みには試作のM16を持って一緒に関西方面へのデモンストレーションにも付き合った。新製品宣伝のためにブラックホールやヴィクトリーショーでブースを出していたときは店番をしていた。
その後、結婚、転勤して地方回りをしてからはしばらく会うこともなかったが、彼はずっと業界では台風の目のようにいろいろな話題の中心にいた。
転勤で東京へ戻ってから再度転勤するまでの頃、亜鉛合金のスライドアクションガヴァや亜鉛合金のディティクティヴなどを製作していたので、わたしは再び解説書を書き始めた。
誰も知らんかなあ、と思いつつ・・・。
ずいぶんマニアックな話を書いた。
2009年過ぎにはZEKEブランドを代表するであろう、後世に残る傑作真鍮削り出しモデルガンを多数製作。
いつも何事にも点が辛い福野礼一郎さんが絶賛しているのだから、珍しいことだ。
近年は亜鉛合金でS&WのKシリーズリヴォルヴァーを作り、文字通り日本で最後の金属モデルガンメーカーとして大活躍している。
しかし、広告は全然出してないし、知ってる人は知ってるが知らない人は全然知らない。社長も表舞台には出てこないので、TVに出ない芸能人のようでもある。
神格化されている六研の製品群を現代の最新技術でとっくに追い越している事実は意外に知られてない。その時代、そのときの技術により過去の製品は技術的に追い越される運命にある。ただ、ZEKEの場合は六研のように広く知られることはないだろう。
彼も、もう還暦になると聞き、年月が経つのは早いものだとしみじみ思う。あのやせっぽちの少年が、令和の時代のモデルガン業界で君臨し、最後の量産金属モデルガンを作っているなんて、当時は想像すらできなかった。
まあ、今はめっきり太ってはいるがね、ははは。
【パートのおばさんたち】
簡単な組み立ては、工場の奥で常時3人くらいのおばさんがやっていた。いちばん若い可愛らしい顔立ちの主婦が30代、他の2人は40代で、典型的なおばさんだった。組み立てしながらずーっとしゃべっていて、90パーセントが下ネタである。
ときどきわたしや同い年の越谷から来てる松本クンが入ると、もうリーダー格のおばさんの下ネタは絶好調である。
「松本さん、もうエッチしたことあんの ? 」
「は、はあ ? 」
松本クンは背が高くてスラッとしたいい男だ。あんまり返事しない愛想悪いわたしと違っていいターゲットになる。
「最後にエッチしたのはいつぅ ? 」
「ダメですよ、××さん、そんなこと聞いちゃ。」
もう一人の40代のおばさんが止めるが聞きゃあしない。
「あたしなんか、半年してないのよ。もうひからびちゃうわ。〇〇さんなんか、若いから毎晩大変でしょ。」
若い30代の主婦に振るが下向いて答えない。
おばさんはまた松本クンに戻る。
「松本クン、今晩ヒマ ? 」
松本クンんはさすがに絶句する。
ここに元自衛官のおぢさんが混ざると大変だ。
この人は本来パイソンの組み立てしなくちゃないのだが、残念ながらちょっと頭が悪すぎて覚えられないので、よくパートおばさんの仲間に混ざって作業させられている。だから、リーダーのおばちゃんもよくからかう。
「ねえ、男の人ってさ、うんちするとき一緒におしっこするの ? 」
「は、はい、します。お、おしっこだけ、と、止められません。うううんこと一緒に出ます。」
元自衛官のおぢさんは真面目な顔でどもりながら答える。映画やTVで観た裸の大将山下清と雰囲気は似ている。
松本クンとわたしは下を向いて笑いをこらえている。
「でもさぁ、便座座るとおちんちんがひっかかっちゃうでしょう。そのままおしっこしたら外にこぼれないの ? 」
「は、はい。み、右手で押さえて、さささ先っぽを下へ向けますから、こ、こぼれません。」
そう言って、おぢさんは腰を浮かせて右手を股間にやり、実演する。
ここで松本クンがこらえきれずに笑いだして、押さえていたスプリングが飛び出して彼方へ飛んでいく。
「あーらー、やっぱり若いからよく飛ぶわねえ、それなら精子も卵子に届いてすぐ妊娠するわよ。」
もう滅茶苦茶である。
やがてわたしはパイソン組み立てへ回ったので、この下ネタ地獄は脱出することができた。かわいそうな松本くんは、その後もしばらくおもちゃにされていたので、工場長に頼んでパイソン組立組へ脱出させてあげた。
元自衛官のおぢさんは、ずっと楽しそうに下ネタのおもちゃになっていた。
あなたのローマンも、おばさんたちの下ネタの合間に作られてるかもしれない。
【就職】
最初はアルバイトでサイドプレートにプッシュゥとかローマンの組み立て前作業とか細かい仕事で働いていたが、さすがに長くなってくるとだんだん重たい仕事が増え、途中からは正社員のおぢさんたちと机を並べてパイソンやGM2の組み立て作業をするようになった。
このような言い方をするのもなんだが、組み立て作業してるおぢさんたちは言われたことやってるだけで、やり方についての関心はない。時間になれば帰るだけだ。
わたしは、作ってるうちにもうちょっと効率いいやり方あるんじゃないかと、いろいろ工場長に提案していたが、工場長はときどきそれを取り入れて作業手順変えたりしていて、次第にいろいろ相談されることも多くなってきた。
なるべく早く正確に組みてるにはどうしたらいいか、など、特に前回書いたパイソンのときはさまざまな手順を考えた。本社の指示でやっていたトリガーバーを叩くやり方も、実は工場長はそこを叩く理由は分かっておらず、わたしが丁寧にシリンダーストップとの連動の動きを説明したら、普段はあまり人を褒めない彼が「すごいねえ、知らなかった」と感動してくれた。
ある日、専務と雑談していたとき。
「今、大学3年だそうだが、就職はどうするのかね。」
「はあ、まだ全然考えてません。」
まだのんきな時代だ。
「ウチへ来ないかね。MGCへ来れば幹部候補で待遇するよ。」
「はあ。」
びっくりした。モゴモゴしてると、「考えといてね。」と言われて終わった。
別に就職先のことは真剣に考えてなかったが、MGCかぁと考えた。
正直言えば、わたしがもう10数歳若く、昭和40年代なら、あるいは会社が小さくても就職を考えたかもしれない。
あの時代、MGCには夢があった。
しかし、1980年代の今。
1971年、1977年と二度のモデルガン規制を経験し、亜鉛合金からプラスティックへと形を変えて発展はしているものの、なんとなく将来には不安を感じた。
確かにわたしがアルバイトをしていた1980年前後は、MGCモデルガン大ヒットの時代だった。
新発売のイングラムはあまりの快調さにみんな驚愕。競って買っていた。
だが、今思えばそこが頂点。まさに終焉直前の輝きの時代だった。
わたしは漠然と、この栄華がずっと続くとは思わなかったのだ。
専務や工場長のような40代ならいいが、今、はたち前後のわたしが40歳、50歳になる2000年、2010年頃もMGCは生き残っているのだろうか、モデルガン業界は発展しているのだろうか、と考えると、どうにも不透明だ。
大企業は別にしても、中小企業の寿命は30年を過ぎた頃が節目だと言うのを何かで読んでいたので、1960年に開業したMGCはそろそろ分岐点にさしかかってるのではないか、と思っていた。
結局、わたしからはっきりと返事することなく、自然にMGCのアルバイトはやめた。
残念ながらその後の展開は予想通りになってしまった。
わたしがやめた直後の1980年代半ば、モデルガン業界は大変革のときをを迎えた。
サヴァイヴァルゲームの紹介からエアソフトガンの時代になり、モデルガンは一気に壊滅したのだ。MGCはエアソフトガンに宗旨替えしてしばらくもがいたけれど、結局大きな波には勝てず、1995年に解散した。
MGCに就職していたら、はたして今はどんな生活を送っていたろうか、と考えることはある。
趣味で満たされた幸せな老後か、ゴミ屋敷に潜む孤独な老後か。
まあ、それも運命。
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