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散文詩的 六研の思い出 その①

さて、弊社のブログでこの寄稿連載を立ち上げるにあたり、最初にその経緯を説明します。

この寄稿文は弊社のお客様で先輩・友人としてもお付き合いのある「No.9」さんから寄せられたものです。

これまでも弊社@私個人をハブとしてモデルガンマニアのお歴々面々と当時の玩具銃を考古学的見地?で様々な意見を交わし、研究し、弊社ブログにて、それらを小出しにしてネタをバラまいてきた事は、皆様がご存知かと思います。

私を含めてですが、年齢的や地方在住等の状況から、当時の事実を知るはずもない方々が、正確な情報の裏付けもなく、現物を見ただけで脳内妄想物語を書いてしまうことに、モデルガンの考古学的な見地(笑)からも、相当に危ぶなさを感じる。と、No.9さんにお話をしたところ、時間をかけて良いなら、とのことで本文を書いて頂けました。

これからもボチボチ寄稿いただけるとのことです。

なお、本文著者は文書や写真の一切について著作権を放棄していません。

無断での転用転載の一切を厳禁いたします。


散文詩的 六研の思い出その

文:No.9

ZEKEさんに頼まれたので、六研と六人部さんの思い出を何回かに分けて、つらつら書いてみようと思います。どこまで続くかはわかりません。いつ終わるかもわかりません。素人記事ですので事実関係については厳密に裏をとっているわけではありません。六研と六人部さんのことに関しては、自分の眼で見て経験したこと以外は、すべて六人部さんご本人から回想として伺ったことです。もちろんいまとなっては裏付けをとることもできませんが、自分勝手な脳内妄想だけは書いていません。Kar98k事件については当時は誰もが知っていたことでしたが、記憶が風化してきている中、ZEKEさんのお客さんなどから「私も体験した」と裏付けを得たようなこともあります。記述の信憑性については、お読みになった皆様が記述の内容からご判断くださるほかありません。


まず簡単に自己紹介をします。私(No.9)は昭和27年4月東京生まれの69歳。上野・御徒町には小学生の頃から父親に連れられてよく行ってました。中学1年生のとき(1965年9月)御徒町に開店したばかりのMGCボンドショップの列に並んで、はじめて買ってもらったのがMGCのPPKでした。ボンドショップの開店というのは、MGCが自社モデルガンの卸売りを事実上中止して自社専売制に移行したその契機にあたります。それまでMGC製モデルガンを売って大儲けしていた御徒町のモデルガン小売店とMGCとの間にこれによって「モデルガン戦争」が勃発、反MGC側は「日本高級玩具小売商組合」を結成し、各社で分担してMGC製品のコピーを開始し、反撃に出ました。私がモデルガンマニアになったのはちょうどそういう頃です。

そのすこし前、MGCの社員がヨーロッパに視察旅行に出かけたときに現地で購入したP38とP08の実銃を腹巻きの中に隠して密輸入、これを測定してモデルガンを設計し、後になって警察に2挺とも任意提出するという事件が起きました。MGC自身が「ビジエール」という当時発行した小冊子の中でこの事件のことを書いてますから、ご存知の方も多いでしょう。またMGCの社員がMGCの御徒町への進出の先鋒だったサービスセンターで、マニアに実銃を販売するというとんでもない事件も、週刊誌の報道などで大きな話題になりました。なので「MGCだって人様のことはいえないな」と思いながらモデルガン戦争のことも、比較的冷静な眼で見ていたという覚えがあります。

それから現在まで、たぶん数百挺のモデルガンを買ってきたと思います。別になんの自慢にもなりませんが、黒い金属時代には発売される各社の主要な製品はおおかた買いました。六研製品も(初期の少量生産モデルや70年代中期の実銃改造品以外は)だいたい1度は買っています。トンプソンだと第1期M1A1(デンスバーではなく20挺しかないマリアブルで、TOD=赤羽デポ・東京兵器補給廠向けの胡桃の実銃用銃床装着品)、妙に真っ白な樺材オイル仕上げのネジ留めM1A1用ストックがついた砂型亜鉛機械加工のM1928(70年3月)、野口製の大変出来のいい第3期連鋳マイティバーのM1A1などを購入。三八式は第2期のずくのゴミをまんまとつかまされましたが。真鍮だとGMはWAブランドで売ったシルジン青銅の粗大ゴミも含め、3期とも発売時に買っています。SAAはFDSは中古、また350挺作った第3期を新品で買いました。あと野口製の木箱入り380ですね。野口製ウッズマンと実銃部品入りエアウエイト風M&Pは買ってません。WAのブラックホークは両方買いました。


六研 東日暮里工場(1970年3月ごろ)

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話を戻しますと、私が中学・高校生の時代(1965年4月~71年3月)は、MGCも反MGC勢力も、モデルガンが売れに売れていた時代でした。売れに売れていたからこそ「モデルガン戦争」も起きたということでしょう。両陣営から数ヶ月に1挺くらいの割合でどんどん新製品が出てましたから、もう楽しくて面白くて仕方なかったです。どちらかというと私はお小遣いが多い方だったので、発売されると片っ端から買っていました。買ってきていじって、発火させて、分解・清掃のついでに仕組みを学んで、納得したら友人に売却して次の購入資金にあてていました。だから当時からコレクター的趣味はまったくなかったです。黒の時代は基本的にMGC派で、両陣営の製品ともに買ったP-38は例外として、GMもP08もSAAもモーゼルミリタリーもMP40も、MGC以外は見向きもしませんでした。もちろん反MGC派であっても中田商店ではウエブリー、トカレフ、ハイパワーなど、CMCにもステンMkll、ハドソンにはM3A1、など傑作モデルはあったので、その場合はおもにCMCの横にあったホビース商会で購入してました。ホビースの田中さんは優しくていい人だったので、強面のお兄さんがずらりそろってた中田商店やマルゴー商店、社長が無愛想なCMCよりはずっと買いやすかったです。

「当時のモデルガンは大人にとっても高価なおもちゃだった」というイメージがあるようですが、中学生~高校生時代の私でも小遣いを貯めてなんとか買えたくらいなので、それほど高価だったという感じはしませんでした。たとえば私が中学2年生だった1966年=昭和41年の大卒初任給を調べてみると2万4900円。MGCのガバメントやP-38など典型的な当時の中型モデルガンの値段が3800円でしたから、初任給の4.5日分で買えた計算です。2021年度の大卒初任給は21万3000円ですから、4.5日分というと約3万2000円に相当します。いまでいうとガスガンより安いくらいですね。昭和46年規制(1971年10月20日)をひかえて、MGCがその3月ごろにカスタムシリーズを限定発売したのですが、そのとき御徒町のサービス部の2階で檜山さんからケースハード風仕上げを施したSAAの51/2と、パイソンベースのトルーパー6in.を購入しました。その綺麗な仕上げに影響されたのが自分でMGブルーを使って研磨・黒染めの趣味をはじめたきっかけでしたが、そのカスタムでさえSAAで9000円、トルーパーで8000円だったと思います。おなじころ梅島のエジプトや神宮前の国本FD協会ではMGCベースのピカドンGMがおおむね1挺2万円弱でした。どちらもよく通ったものです。

それにしても黒の時代のモデルガンは販売量もケタ違いだったようです。ずいぶんあとに六人部さんに直接聞いた話では、六人部さんが中田商店に入社して初めて設計した亜鉛合金ダイキャスト成形の量産モデルガン第1号の中田P-38は、「発売1年間で30万挺売れた」とのことです。そのとき六人部さんは中田社長と「1挺売れたら設計料100円」という口約束をしており、約束通り1年間で100円×30万挺=3000万円もらったとのこと。大卒初任給から計算すれば21万3000円÷2万4900円=貨幣価値は現在の8.55倍くらいですから、1年足らずでいまのお金にして2億5600万円稼いだことになります。練馬に豪邸が建ったのも当然ですよね。60歳を超えても続いていたキャバレー通いは、このころ覚えた遊びだと言ってました。金銭感覚が狂ったのもこの頃だったのかもしれません。

中田製モデルガン設計料の歩合性支払いというシステムはその後も継続し、六人部さんはいまのお金でいえば毎年何億円というお金を稼いでいたようですが、社長と六人部さんだけが大金持ちになったため、中田商店の社内の空気がだんだんぎくしゃくしてきたということです。当たり前ですね。そこで中田社長の提案で、1967年の春=六人部さんの入社丸4年目に、六人部さんがそれまで率いてきた設計部が独立することになり、ご祝儀として中田商店で買い揃えた工作機械をそのままもらったのだそうです。新たな社屋を東日暮里に借りて機械を設置、社員は中田商店の店頭にいつも遊びに来ていた常連客で写真植字研究所の機械加工技術者だった数人(確か5人)をリクルート。写真植字研究所の通称は「写研」だったので、六人部の「六」と写研の「研」で「六研」にしたと聞きました。当時は六研という名前を聞いて「まさか....」とぎくっとした方も多かったようですが、新宿の百人町に施設があってサリンなどの毒ガス研究をしており哈爾浜や長春の防疫給水部隊とも連携していた陸軍技本第六研究所(六研)とは残念ながら?なんの関係もないとのことでした。
ローマ字表記をROKKENではなくROCKENとしたのには、ジャズが好きで自分で演奏もしたという六人部さんのセンスが表れている感じがします。ちなみにSSさんをはじめとする六研の技術者が勤務していた元の会社はいまも存在しています(現社名は株式会社写研)。

六研としての製作のスタートは、中田社長のご祝儀注文で1967年春に5挺づつ製作、全数を中田商店に収めた第1期三八式と九九式歩兵銃(SS41機械加工、ストックは樺のセラックニス仕上げ)です。モーゼルKar98k事件で77年に事実上倒産し、CMCに合併吸収されるまでの10年間に33回にわたって製品を企画・制作・販売しました。そのほぼすべての製品を中田社長は1挺づつ買ったそうですから、六研の最大のコレクターは間違いなく中田さんですね。同時に六研は日本高級玩具小売商組合の仕事としてCMC、マルゴー、コモダ=スズキ、ハドソン、アサヒイーグルなどの各社の依頼でモデルガンの原型1品試作も行っています。日本中央産業の注文でプレス成形でストーナー63Aのセールス用ミニチュアを10セット製作した話も有名です。

もちろん六研を立ち上げる以前に、六人部さんは中田商店の社員として中田社長の社命で一品制作品を多数作っています。これら中田時代および六研 東日暮里時代の一品製作品、およびCMC退職後に設立した王子の東京モデルシックス時代に1品制作した試作品こそ、個人的には真に価値のある「六人部作品」だと思っています。東日暮里時代に100挺単位で量産した真鍮などのセミカスタムの六研製品は、その実際の出来栄えから言って、個人的には「ほとんど価値なし」と感じています。荒い金やすりでがりごり削った第3期のM1911の無惨なマガジンウエルなどを間近にご覧になってみれば、皆さんもきっと同じことを感じられると思います。

1973年の3月に東日暮里の六研に遊びに行ったときは、第2期のシルジン青銅のGMの生産の真っ最中でしたが、工場内に響いていたのはいつものジャンジャンジャンという機械加工の切削音ではなく、ダンダンダン、バンバンバンという何かをぶっ叩く打音でした。六研の量産品はSAA(全期)も第1期のGMも、フレームは真鍮の砂型鋳物が母材だったのですが、第2期GMでは初めて外注でロストワックス製法でフレームを作りました。ところがSSさんによると、先方の工場のワックス型の保管状態が良くなかったとのことで、納品された鋳造フレームがどれも微妙に歪んでしまっており、機械加工の治具に固定さえできず、社員総出でフレームを点検して、歪んでいるものは万力にかましてプラハンマーでバンスカ引っ叩いて修正しているとのことでした。「これが六研の真相か」とショックを受けたものです。のちに六人部さんは「ワックス型が変形してしまったのは、うちが制作代金をなかなか払わなかったので、注型後しばらく放置されてしまったせい」と言っていました。これに懲りて?第3期のGMのフレームは再び鋳巣の目立つ砂型に戻りました。

SAA第1期 69年10月 生産数:150挺、

六四黄銅砂型鋳造/機械加工+手仕上げ 

FDS刻印 4¾、5½、7½、ニッケルあり

当時の売価3万2000円

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アメリカからスクラップの名目で輸入した三八歩/騎、九九短/長、四四騎前/中/後、二式テラなどを溶接肉盛りして機械加工して黒染めし、仕上げ直しを施したストックに乗せた日本軍実銃シリーズ(75年3月)、在日米軍の将校が深夜自家用車で持ち込んだ儀仗用スプリングフィールドM1903A1/A3(SFA、レミントン、コロナ製)の銃身を叩き切って改造した実銃可動モデルガン21挺、六研に出入りしていた某ガンジャーナリスト(?)の従兄弟が天下った会社が生産していたタイ国 陸軍用を購入・改造してモデルガンとして10挺販売したガスピストン付M1カービン(先方で流出問題になって10挺はメーカーに返却)など、六研製品にも凄いものは一部あったにはあったのですが、同じ「六研のM1カービン」でも、69年4月に100挺作って4万円で販売した第1期製品や、同じ「六研の三八」でも71年7月に100挺作って5.5万円で売った第2期の三八式などは、いずれも素材がねずみ鋳鉄(ずく)製で、単体で机に立てかけといてうっかり倒したらポキンとレシーバーが折れたなど、六人部さん自らがのちに「ゴミ」と呼んだガラクタもあるのですから、「六研のXXX」といったって、いつのどの製品かで実銃とゴミくらいの差があったわけです。


トンプソンM1928 第1期 69年春 製造数:3 

連鋳デンスバー機械加工 当時の売価20万円

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あとは野口ですね。名作と言われているブローニング380(75年10月/300挺、うちロング35挺)やウッズマン(76年春/4.5inと6in.で100挺)は六研製ではありません。全数が下請けの野口製作所製です。六人部さん本人が「380とウッズマンでうちで作ったのは1挺もありません」と断言してたのですから間違いないでしょう。同社は75年6月のベルグマンMP18(110挺)のうちの80挺、第2期のM1A1トンプソンの150挺(75年7月)の全数もそれぞれ下請け生産してます。六人部さん本人の談によると、「トンプソンのときは例によって製作費の支払いを約束通りにしなかったため、野口さんが怒って六研を通さずに直接問屋に卸した製品が多数あった」とのことです。あと六研で売ったSFAトラップドアももちろん全数ミコアームズ製です。あなたのそれは本当に六研製ですか? あぶないあぶない。「六研」は魑魅魍魎の世界、ゆめゆめ素人が手を出してはいけません。


待ちに待ってようやく手にいれることができたとしても、当時の六研製品というのは高校生の眼でみても、まずひどい出来でした。鋳巣が表面に露出してるなど当たり前、レールの公差も大きく、内部の加工は刃物がびびって荒っぽく、分解して眺めながら「ひどい加工だな」と毎度あきれたものです。「これはいい」「素晴らしい」と例外的に思ったのは野口製作所で作った製品だけでした。そもそもフレームを圧延材からの総切削で作れたのは野口だけ、六研製はすべて鋳物でしたからね。カメラレンズの鏡胴をつくれる薄肉精密加工技術を持つ工場と六研とでは、所詮持ってる機械も技術も段違いでした。


上:トンプソンM1A1 第1期 69年1月 生産数:200挺  

当初20挺のみ黒マリアブル、残180挺=連鋳デンスバー、パーカライジング

30挺は実銃TOD向け胡桃銃床付き、セレクターレバーがダミーでフルオートのみ、

 当時の売価3万8000円


下:M1カービン 第1期 69年4月 生産数:100挺 

  砂型ねずみ鋳鉄(ずく)+真鍮レバー/トリガー 

ストックは桜材のセラックニス仕上げ

 当時の売価4万円


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ちなみに当時、六研の製品は、まずGUN誌の1ページ広告で製作を大々的に発表し、通販で50%の前金を全国から集め、これを資金に製作するという方式でした。広告を見た問屋や小売店からも同時に注文が入りましたが、六人部さんによると「生産計画が杜撰だったので」毎回必ず製作が遅れに遅れて、発売予定日に間に合わないのはいつものことでした。雑誌にはそのお詫び広告ばかりが毎月出ていました。GUN誌のバックナンバーを詳細に調べていただければその証拠が全部残ってます。もちろん問屋は最強なので、毎日のようにやってきては組み上がっているものからその場に現金を積んでどんどん持っていってしまいます。卸が上代の仮に6掛けだったとしても現金収入ですからね。半金支払い済みの予約注文者に送っても入金はのこり半額、前金は材料費と人件費と工場経費で消えて蒸発、ならば誰だって現金の方を取るでしょう。私が知ってる限り半金を払って待っている通販のお客さんへの発送はいつも最後のほうでした。私自身も50%払って何ヶ月待っててもいつまでもトンプソンを送ってくれず、ふらっと代々木のポストホビーにウインドウショッピングに行ったら堂々売ってたなんてことがありました(もちろんその場で購入、六研に払った半金は取りに行ったら返してくれましたが)。当時谷塚のコレナガアームスさんや御徒町のホビース商会さんなどはいつも「悪いこと言わないからウチから買っとけって。そしたら意地でも1挺ふんだくってきてやるから。六研に直接カネなんか渡したら未来永劫もらえないぞ」なんて脅かされたものです。


そういう杜撰な経営が結果的に大事件になったのが、通販で約200挺分の前金を受け取っておきながら、1挺も生産しなかったKar98kでしょう。なぜそんなことになったのか、六人部さんもはっきりとは言いませんでしたが、「あのときはひどいことしました」とは認めてました。それならそれでちゃんとそれも雑誌の記事で言って欲しかったですねえ。私はいつも通りホビース商会さんに予約してた(もちろん無料)ので被害にはあわずにすみましたが、ホビース商会さんからはそのとき「六研が金型の製作代金をいつまでも支払わなかったので、怒った金型屋が完成した金型を潰してしまってそれで製作不能になった」と聞きました。もちろん真相はわかりません。六人部さんはCMC時代になって希望者に返金したり、CMCの資金で新たに金型を作って生産したKar98kを送ったりしたそうで、実際にそれを受け取ったラッキーな方もおられるようですが、六人部さん本人によると「半数くらいは勘弁していただいたと思う」ということですから、いまだったら炎上くらいじゃすみませんよね。まあ実はもっとひどい話もあるのですが(多分ZEKEさんも被害者)それはまたいずれ。


そういえば王子の東京モデルシックス時代に六人部さんから、どなたかが制作した「六人部+六研制作品全リスト」という題名のリストのコピーをいただいたことがあって、今でも大事に保管してあります。いずれ折りを見て公開させていただこうと思います。ではまた。


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by products-zeke | 2021-10-25 20:00 | 散文詩的 六研の思い出(No.9作) | Comments(0)

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